26日の予想
風
西の風やや強く三宅島では後西の風強く
波 2.5mうねりを伴う
周期:7秒~10秒 条件はバッチリ!!
2月22日(月) × 欠航 機材故障のため
2月23日(火) ○ 就航 条件付
2月24日(水) 芝浦
2月25日(木) 辰巳
――(ここから予想)――
2月26日(金) ○ 就航
2月27日(土) ○ 就航
2月28日(日) 日曜運休
2月29日(月) ○ 就航
3月 1日(火) ○ 就航
3月 2日(水) ○ 就航
3月 3日(木) 芝浦
(2016年 2月25日 23時00分現在の予想)
いろいろ調べた結果、このようになりました。ほとんど時刻表通りの就航になります。この先もずっと船が動くとわかっていれば今すぐにでも有給休暇をとって、青ヶ島へ飛んでいきたい気分。(笑)ずーっと昔、2001年だったかな、金曜日の仕事が終わって「そうだ!あおがしま!」とふらりと「かめりあ丸」に乗船。翌朝、底土港到着。タクシーを捕まえて反対側の八重根漁港へ。還住丸が出航準備中だったので、ふらりと乗船。気が付けば青ヶ島。宿の予約をしていないため、どこも門前払い。「部屋の用意はできているけど、いきなりの飛び込みでは、食事の準備も出来ていないので、どこも受け入れてもらえないんだよ」とのことです。
これだけでなく、貯まったマイレージマイルでいきなり仁川空港行きの航空券をゲット。(これも思いつき。ネットでポチッとして「あとは引けない、行動に移すのみ!」)ソウル駅から北へ延びる「京義(キョンウィ)線」かつての大日本帝国時代に京城(今のソウル)と、北朝鮮の義州 (ウィジュ)まで結んでいた。38度線を越えても、韓国領。やがて、終点、新炭里(シンタンリ)駅。本当に何もなくて山間の寂しいところでした。韓国では温泉マークの付いている宿は日本で言うと「素泊まりの安い簡易旅館」。予約なし飛び入りでも可能。当時(2000年頃)の相場は1部屋2万ウォン(=2千円)。ここからわずか数キロ先は軍事境界線。向こうの兵士が越境してくることはありえないと頭の中では理解していても、ここで一晩過ごすのはちょっと心細い。結局、日帰りでした。今度は、板門店(パンムンジョム)の停戦会談場。テーブルの真ん中にマイク線が引かれてあって、実質国境線。韓国兵士が会談場の四隅に配置し、微動たりせず立哨。その間に国境線を超えて、北朝鮮領に踏んでよい、とのこと。わずか数秒間だけでしたが、北朝鮮に行ったということになります。建物の外にポプラ事件(※)がきっかけで、コンクリートで境界線。カーキ色の軍服は境界線の北側、ヘルメットに黒いサングラスは南側で立哨。もちろん、ドアの向こうは北朝鮮。ドアを突破して、向こうの外に出られるわけではない。もし、羽目を外してしまうと、亡命した扱いになり、2度と日本へ帰って来れなくなっていたかも知れない。このブログもなかったかも知れない。
若かった頃は「思いつきでいきなり」といった行動を好んでいました。しかし、今は慎重になりました。
(※)ポプラ事件・・・1976年。非武装の共同警備区域内では、どちらも自由に往来できていました。韓国兵が監視の邪魔になる大きく繁ったポプラを剪定しようと、のこぎりと斧を持ち歩いているのに北が激高し、取り上げたことにより取っ組み合いになり、韓国兵を殺害する事件があった。共同警備区域内であっても自由に往来ができないように、境界線を引くことに決定。
風
西の風やや強く三宅島では後西の風強く
波 2.5mうねりを伴う
周期:7秒~10秒 条件はバッチリ!!
2月22日(月) × 欠航 機材故障のため
2月23日(火) ○ 就航 条件付
2月24日(水) 芝浦
2月25日(木) 辰巳
――(ここから予想)――
2月26日(金) ○ 就航
2月27日(土) ○ 就航
2月28日(日) 日曜運休
2月29日(月) ○ 就航
3月 1日(火) ○ 就航
3月 2日(水) ○ 就航
3月 3日(木) 芝浦
(2016年 2月25日 23時00分現在の予想)
いろいろ調べた結果、このようになりました。ほとんど時刻表通りの就航になります。この先もずっと船が動くとわかっていれば今すぐにでも有給休暇をとって、青ヶ島へ飛んでいきたい気分。(笑)ずーっと昔、2001年だったかな、金曜日の仕事が終わって「そうだ!あおがしま!」とふらりと「かめりあ丸」に乗船。翌朝、底土港到着。タクシーを捕まえて反対側の八重根漁港へ。還住丸が出航準備中だったので、ふらりと乗船。気が付けば青ヶ島。宿の予約をしていないため、どこも門前払い。「部屋の用意はできているけど、いきなりの飛び込みでは、食事の準備も出来ていないので、どこも受け入れてもらえないんだよ」とのことです。
これだけでなく、貯まったマイレージマイルでいきなり仁川空港行きの航空券をゲット。(これも思いつき。ネットでポチッとして「あとは引けない、行動に移すのみ!」)ソウル駅から北へ延びる「京義(キョンウィ)線」かつての大日本帝国時代に京城(今のソウル)と、北朝鮮の義州 (ウィジュ)まで結んでいた。38度線を越えても、韓国領。やがて、終点、新炭里(シンタンリ)駅。本当に何もなくて山間の寂しいところでした。韓国では温泉マークの付いている宿は日本で言うと「素泊まりの安い簡易旅館」。予約なし飛び入りでも可能。当時(2000年頃)の相場は1部屋2万ウォン(=2千円)。ここからわずか数キロ先は軍事境界線。向こうの兵士が越境してくることはありえないと頭の中では理解していても、ここで一晩過ごすのはちょっと心細い。結局、日帰りでした。今度は、板門店(パンムンジョム)の停戦会談場。テーブルの真ん中にマイク線が引かれてあって、実質国境線。韓国兵士が会談場の四隅に配置し、微動たりせず立哨。その間に国境線を超えて、北朝鮮領に踏んでよい、とのこと。わずか数秒間だけでしたが、北朝鮮に行ったということになります。建物の外にポプラ事件(※)がきっかけで、コンクリートで境界線。カーキ色の軍服は境界線の北側、ヘルメットに黒いサングラスは南側で立哨。もちろん、ドアの向こうは北朝鮮。ドアを突破して、向こうの外に出られるわけではない。もし、羽目を外してしまうと、亡命した扱いになり、2度と日本へ帰って来れなくなっていたかも知れない。このブログもなかったかも知れない。
若かった頃は「思いつきでいきなり」といった行動を好んでいました。しかし、今は慎重になりました。
(※)ポプラ事件・・・1976年。非武装の共同警備区域内では、どちらも自由に往来できていました。韓国兵が監視の邪魔になる大きく繁ったポプラを剪定しようと、のこぎりと斧を持ち歩いているのに北が激高し、取り上げたことにより取っ組み合いになり、韓国兵を殺害する事件があった。共同警備区域内であっても自由に往来ができないように、境界線を引くことに決定。