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Channel: 東京アイランド
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読者様より寄稿がありました。あおがしま昔話です。

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 三宝港の旧堤が出来る前の写真を掲載した記事に読者様より貴重なコメントを寄せられました。

(ここから)

 昭和26~27年にこの青ヶ島にいました。
 定期便は黒潮丸という、これは先代昭和22年竣工の東海汽船の500トンの貨客船 黒潮丸のことです。
 この船が荒れる冬でも月に1度はこの青ヶ島に来ていましたので、年に4~5回しか船は来なかったというのはオーバーで完全に間違いです。
 そんなことしたら自給自足がほとんど出来ない私ら内地からの赴任者家族は飢え死にしてしまいます。
 当時の島民は今より多かったですし小学校もありましたからね。
 ただ確かにその月1度の船も荒波で沖合に停泊もできずそのままUターンというのは見ました。
 沖合前面に無数に立つ白波がこの50メートルの長さの船より大きかったのをハッキリと覚えてます。
 冬のこのあたりの荒れ方はすごいですよ。 艀がこの岩場から出て黒潮丸に着船してもウネリで艀は5メートルくらい上下し、そのウネリに押し上げられ上に上がった瞬間に本船横に開いてる乗降口から船客は飛び移ったものです。
 これを老若男女皆やりました。命がけです。海に落ちるより本船と艀の間には挟まれたら死を意味しますから。良い写真に感謝です。 

(ここまで)

 当時の年賀状は4月、新学期の教科書は7月・・・といったように、年に4~5回しか来なかったという記録を基に記事を書いてしまいましたが、実際は月に1度は必ず船が来ていたのですね。
 冬の荒れた海でも命がけの艀作業が行われ、青ヶ島に上陸されたという様子が目に浮かびます。今だったら、波高3m以上だと欠航確定なんですが、せっかくここまで来てしまったので、引き返すわけではない。なんとか島に上陸できるか、模索されていたんですね。
 1951(昭和26)年から27年に青ヶ島にいらっしゃったということは、現在はお歳を召された方かなと、思料いたします。コメントをお寄せいただき、誠にありがとうございます。

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