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Channel: 東京アイランド
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2時間後・・・母島が見えてきました!

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 最終目的地に近づくのに、ワクワク感がたまらない風景。
 まず、2年前のアオガシマ。

 青ヶ島は昔から「男ヶ島(おがしま)」や、「鬼ヶ島」と言われているとおり、険しい形相。逆に八丈島は女護ヶ島(にょごがしま)。

 昭和30年代は港はなく、ただの船着き場。沖合いに大型客船が停泊し、小型のボードに乗りかえて褌姿の漕ぎ手が「エイサ、エイサ、エイサ」という掛け声とともに船着き場へ。当時は年に4、5回くらい。どんなにベタ凪ぎでも、船は来ない。年賀状は4~5月に配達、学校の教科書も、7月に入ってから。艀作業で真っ先に降ろされるのは、〒郵袋。10円切手(当時の封書料金)に数ヶ月前の消印が押された手紙を開封し、その場で返事を書かないと、次に来るのは4ヶ月後。内地から青ヶ島に手紙を出して、返事が来るのは1年近くになってしまうので、今来たばかりの船で返事を託しておかないと!!船が来る日は学校もお休み。全島民総出で港へ。艀作業で運ばれる荷物や食料の運搬。
 あれから半世紀後。海が荒れていなれば、原則として就航。ヘリコプターは荒天でなければ日曜日でも飛んできてくれる。インターネットのブロードバンドも導入しており、内地と同じ感覚でメールやLINEも瞬時にやりとりができる。

 母島が見えてきました!青ヶ島は険しい形相だけど、母島は「母」らしく、穏やかな表情。小笠原諸島は父島や母島をはじめ、父島周辺は兄島や弟島とか男性ファミリー、母島周辺は姉島や妹島とか女性ファミリーの名前が付けられているところが多いです。
 八丈島と青ヶ島、どちらを選ぶとしたら、青ヶ島。父島と母島だったら、母島を選んでしまいます。共通点は「一時は無人島を経験した秘境」。


 もうすぐ目的地なので、コンテナ室の蓋をオープン!!100-2201母島宛のゆうパック、クロネコヤマトのお荷物や郵袋、東京からおが丸で運ばれてきた、貨物や食料品などなど。檜原村(190-02**)から小笠原村母島(100-2201)までのゆうパックの料金は1000キロ離れていても「都内扱い」。

 ぴかーんと晴れていて、暑いっ!!

 戦前、細長い南北の島に、2つの村がありました。北部は北港周辺を中心にした「北村」、南部は沖港周辺の「沖村」。父島も二見港周辺の市街地は「大村」、父島の南部は「扇村袋沢村」。それからもう1つ、忘れてはならない島。日米軍との激戦地で多くの方々が亡くなられた「硫黄島村」。太平洋戦争が始まる前は人口1000名、サトウビキや漁業を生業とした、とても平和な島でした。大日本帝国の真珠湾奇襲(1941年12月8日)が原因で日米との関係がこじれてしまい、交戦開始。アメリカ軍は硫黄島を日本へ攻める航空基地にしようとしたため、赤紙で招集された日本軍を硫黄島送り。もし、硫黄島が陥没されると、今度は父島や母島を攻めてくるかも知れないと砲台や海軍通信隊送信所を配備。終戦後、小笠原諸島はアメリカの施政権下に置かれました。1968(昭和43)年6月28日に日本復帰するとともに、「小笠原村」設置。特に母島は20年以上も無人島だったため、インフラの整備など開墾に5年の歳月がかかりました。
 母島の西側を通過中。

 青ヶ島は断崖絶壁をコンクリートで固まったり、崖崩れとか殺風景な風景だけど、母島は光風明媚。

 まもなく、沖港でーす!!7年ぶりの風景にワクワク!!

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