翌朝もJR広島駅からスタートなので、駅前のホテルにすればよかったんですが・・・希望するところを見つけても禁煙、予算など条件に合うところ無し。条件に合うところは広島市の中心部、平和記念公園の近く。すなわち、74年前は爆心地に近いところです。爆心地における風速は440メートル以上と推定されているので、この周辺にあった住宅はすべて無くなり、焼け野原。道だけが残されている状態でした。原爆ドームは爆心地に近いのにドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残されているので、負の遺産として世界遺産に登録。
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広島電鉄の路面電車に乗ります。ひろでんの歴史はとても古く、大正時代に創業。1945(昭和20)年8月6日の午前8時15分に原子爆弾が落とされた直後から全線運休。一部復旧したのは爆弾が落とされた3日後の、8月9日から。「これくらいのことでへこたれてはならん。みんな会社再建のためにがんばろう」(多田恒二郎・広電社長(当時))の指示のもとで、爆心地付近の変電所は全滅したが、宮島付近の廿日市の変電所からの送電線を敷き、爆心地から西へ2キロの天満町まで線路沿いにまだ死体が横たわっている状態で復旧。
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原爆が落とされてわずか3日後電車が動いたといった話は、何年前かの平和記念特番で見たような記憶があります。
ホテルへチェックイン。友人と翌朝のスケジュールについて少しだけ打ち合わせ。私は未乗区間の可部線に乗りに行くが、すでにあき亀山まで乗ったことのある友人は別行動。広島駅の在来線改札前で〇時〇〇分に待ち合わせ、と約束し、解散。
あ~、今日は1日中電車に乗りっぱなしで疲れた~!!と部屋で引きこもり。テレビをチェックしたら、ちゃんと字幕を出せる。このホテルは名の通っている全国チェーンのものだけど、やはり安心できる。全国どこに行っても同じサービスを受けられる。
私はホテルの部屋から1歩も出なかったんですが・・・行動派の友人は颯爽と散歩へ。ここからは友人のカメラに入っていたものを拝借。私が実際に出かけて撮ってきたものではありませんが、今の広島に目を見張るような画像データが入っていたので、掲載させていただきます。
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ホテルの近くに流れている、太田川。74年前の夏・・・水を求めて多くの方々が入水し、遺体が多く浮かんでいる光景だったそうです。水を飲むと安心したかように亡くなられた方が多かったと聞いています。
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このような過ちを2度と繰り返さないように、原爆の悲惨を世界にアピールするための資料館は平成31(2019)年3月当時、リニューアル工事中でした。
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日没後でもライトアップしているとは知りませんでしたが、朝まで夜通しで点灯されているとのことです。
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この建物の正式名称は、1915(大正4)年4月5日に竣工、同年8月5日に開館した「広島県産業奨励館」。
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建物が出来てから30年後の1945(昭和20)年8月6日、200メートル先の爆心地から爆弾が落とされたままの姿で保存。
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設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェル氏。風速440メートルでも耐え抜いています。(千葉県に甚大な被害をもたらした台風15号の最大瞬間風速は60メートルなので、およそ7~8倍)
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昼間だったら、賑わっているのであろうアーケード街。
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広島電鉄の路面電車に乗ります。ひろでんの歴史はとても古く、大正時代に創業。1945(昭和20)年8月6日の午前8時15分に原子爆弾が落とされた直後から全線運休。一部復旧したのは爆弾が落とされた3日後の、8月9日から。「これくらいのことでへこたれてはならん。みんな会社再建のためにがんばろう」(多田恒二郎・広電社長(当時))の指示のもとで、爆心地付近の変電所は全滅したが、宮島付近の廿日市の変電所からの送電線を敷き、爆心地から西へ2キロの天満町まで線路沿いにまだ死体が横たわっている状態で復旧。
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原爆が落とされてわずか3日後電車が動いたといった話は、何年前かの平和記念特番で見たような記憶があります。
ホテルへチェックイン。友人と翌朝のスケジュールについて少しだけ打ち合わせ。私は未乗区間の可部線に乗りに行くが、すでにあき亀山まで乗ったことのある友人は別行動。広島駅の在来線改札前で〇時〇〇分に待ち合わせ、と約束し、解散。
あ~、今日は1日中電車に乗りっぱなしで疲れた~!!と部屋で引きこもり。テレビをチェックしたら、ちゃんと字幕を出せる。このホテルは名の通っている全国チェーンのものだけど、やはり安心できる。全国どこに行っても同じサービスを受けられる。
私はホテルの部屋から1歩も出なかったんですが・・・行動派の友人は颯爽と散歩へ。ここからは友人のカメラに入っていたものを拝借。私が実際に出かけて撮ってきたものではありませんが、今の広島に目を見張るような画像データが入っていたので、掲載させていただきます。
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ホテルの近くに流れている、太田川。74年前の夏・・・水を求めて多くの方々が入水し、遺体が多く浮かんでいる光景だったそうです。水を飲むと安心したかように亡くなられた方が多かったと聞いています。
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このような過ちを2度と繰り返さないように、原爆の悲惨を世界にアピールするための資料館は平成31(2019)年3月当時、リニューアル工事中でした。
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日没後でもライトアップしているとは知りませんでしたが、朝まで夜通しで点灯されているとのことです。
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この建物の正式名称は、1915(大正4)年4月5日に竣工、同年8月5日に開館した「広島県産業奨励館」。
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建物が出来てから30年後の1945(昭和20)年8月6日、200メートル先の爆心地から爆弾が落とされたままの姿で保存。
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設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェル氏。風速440メートルでも耐え抜いています。(千葉県に甚大な被害をもたらした台風15号の最大瞬間風速は60メートルなので、およそ7~8倍)
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昼間だったら、賑わっているのであろうアーケード街。