令和3(2021)年12月19日をもちまして閉店してしまいましたが、メニューの1番最初に書かれている内容です。
私がいつも頼んでいるのはお刺身に松花堂弁当がついていて、ボリュームたっぷりの「ふたみランチ」。かなり人気のある定食なので、瞬く間に売り切れてしまいます。当日中に予約がなければ20食限定。前日までに予約の電話をすれば、取り置きしてくれるシステムでした。LINEで取り置きをお願いしたので、「完売」の表示が出ても、ちゃんとありました。
子どもの頃、二見で外食ができる場所は国道191号線と県道のT字交差点先の小さな食堂。出前もやっていて、両親の仕事が忙しいときは海鮮チャンポンを伯母が電話注文。数人分を大きな鍋ごと届けてくれて、家にある丼に取り分け。頃合いを見て、空になった鍋を取りに来てくれたような記憶が・・・。成人になると、このお店は廃業してしまい、長年も飲食ができる場所は空白地帯に。やっと2016(平成28)年に外食できるお店が復活しましたが、再び空白地帯になってしまいます。
シーフレンズふたみ店舗先の風景。すぐそこは日本海。
12月の海は毎日のように白波が立っています。
二見トンネルを抜けると、長門二見駅。子どもの頃、何度も利用した駅です。今はもう無人駅ですが、国鉄時代は24時間体制で数名の駅員さんが駐在。旧駅舎に当直室がありました。
国鉄時代だったら、下関方面の始発は3時台。東京山手線の始発よりもっと早い時間の3時半頃。魚行商のおばちゃまが驚くほど嵩の高い荷物を背負って、九州方面などへ売り出し。ほとんどブリキの籠を何重も重ねて風呂敷に包んで背負うので、当時はカンカン部隊と呼ばれていました。最終列車は23時半頃まではありました。今だったらおおよそ2~300キロ以上の遠くまでだったら、どこかの宿泊施設に泊るんですけど、平成の初め頃は少ないお小遣いなので、宿泊代を惜しんで日帰り。下関発22時22分に接続できれば、宮崎や熊本でも日帰り可能。ジジィになった今、鉄道旅は明るい時間帯に切り上げてホテルの部屋でのんびりするのが定番パターン、「若気の至り」という言葉があるとおり、ずっと昔、東京に住んでいた頃は気心が知れた仲間達と飲み会などで深夜1時台の終電でも平気だったんですけど、今はもうそんな体力は持たないかも。
山陰本線はもともと海岸沿いに敷設する計画だったのに、強引に内陸の滝部方面に勧誘。そのため、線路が「く」の字に折れ曲がっている状態で長門二見駅が出来ているので、崖の上にあります。コンクリートで補強工事を完了したと示す「1983(昭和58)-3」の刻印あり。
子どもの頃、何度も階段を使いましたが、当時の記憶では広い空間だったのに、今は狭くなっています。子どもの目で見たときは広く見え、大人になった今は狭く見える。
踊り場で90度向きを変え、ホームへ。
階段の出口に6人掛けの待合室があります。
平成22(2010)年12月7日建設。そういえば、ホームの真ん中にあった木造の待合小屋は大正時代に開業したときからあったものだけど、平成22年の8月に不審火により焼失。その4ヶ月後、急ピッチで新しく設置。冬の長門二見駅は北からの冷たい強風で吹雪くこともあるので、階段まで風が入ってこないように出口に待合室でふさがるようにしたかも知れません。
開業した大正時代は蒸気機関車が10両前後の客車を牽引していたので、ホームの端から端までがとてつもなく、長い。
1991(平成3)年にJR西日本様式の駅名票に付け替えてから1度も更新なし。まだまだ使えるレベルなので、新しくしない。縦型駅名票もその頃からだけど、今はもうすっかり色あせていて、真っ白。1日の利用者が数名程度の駅なので、縦型駅名票を新しく発注するなんて無駄だと思われたらしい。
子どもの頃、朝6時半の汽車で下関へ。冬期の夜明けは東日本に比べると遅い。冬の間は真っ暗闇のさなか、家を出て、駅へ。ホームに上がっても20ワットの蛍光灯が2本。明るいのは蛍光灯の下だけであとは真っ暗。今はご覧のとおり、1本の電柱に多方向に向かって照らせるようにLED照明器具が取り付けられています。夜の長門二見駅はきっと明るいに違いない。
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今度は思い出の場所へ
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