線路が見えてきたら、次の駅の接近。今度は南大嶺駅。
駅舎はあそこなんですけど、駅舎側の1番線は旧大嶺支線の跡。使われていないのなら、構内踏切でも作ってすぐホームに出られるようになればいいんですが・・。
こちらの駅名票は美祢線本線用。
駅舎側のある駅名票を拡大してみると・・・
1997(平成9)年に廃止された大嶺支線用の駅名票。次の駅は「おおみね」になっていますが、ちょうど美祢と同じ読み方なので、「おお」のところを青いペンキで塗りつぶされた跡が見えます。
大嶺支線に乗車したのは、高校の時に1回。2回目は・・・1997(平成9)年3月31日をもって廃止されるので、わざわざ東京から駆けつけ、乗車。長門市駅#発行の「#(シャープ)」が入っている機種は日立製作所の熱転写MR12型(平成4年頃~平成22年頃まで)。「@(アット)」が付くものは感熱タイプのMR32型(平成17年~平成30年頃まで)。現在はMR52型で統一。(JR九州は「R」、JR西日本およびJR東日本の東京支社、横浜支社は「F」、JR東海およびJR北海道は「MR」、JR四国は「M」。「E」はJR東日本の東京、横浜を除く全地域のみでOKI電気製ME4型端末。)10年経てば、これまでの法則に従うとしたら、MR72型か!?
大嶺駅に着いたら、きっぷは回収されるのが決まりなんだけど、無効印の代わりに運転士さんのサインお願いしますとリクエスト。もう24年前なんですかね・・・。当時50代おぼしい方だったので、今はもう定年退職されているかと思います。変わっているマニアでも丁寧に応えてくれる、とても親切な運転士さんでした。
1997(平成9)年2月27日撮影の大嶺駅。1905(明治38)年に建てられた建築物。駅前にある石のタイルも明治時代からのもの。
1997(平成9)年3月31日、JR西日本広島支社主催の「さようなら大嶺支線」の盛大なセレモニーが行われ、翌日の4月1日からもう列車は来なくなりました。ゴールデンウィークの帰省に東京からマイカーで美祢インターをおりて、大嶺駅へ。クルマは1994(平成6)年製造の5変速マニュアル。あの頃はむちゃくちゃ無謀に全国のあちこち出かけたため、10万キロを達した2001(平成13)年頃。上信越道の路上でクラッチが繋がらなくなり、とっさに故障と気づき、「とりあえず、今は路肩へ」と惰行運転で路肩へ停車。今だったら、スマホからJAFに助けを求められるが、2001年当時はなかった。路肩に停まって、1番近い「非常電話」へ。ろう者は電話で状況を説明できない代わりに受話器を外したまま待機。すると、黄色い高速道路パトロールカーが受話器を外された電話ボックスまで急行してくれます。10万キロを達してもクラッチ板を交換しないままだとすり減ってしまい、回転力の伝達ができなくなる現象。あの頃は乗り潰すまでセコい乗り方をしていたんですけど、今はジジィになっているので、車検費用のことも考え、最初の3年目で車検、その次の車検前に手放すサイクルを採用。
ちなみに青ヶ島はAT車でも走行可能ですが、きびきびな走りができるのはマニュアル。急勾配のつづら折り、しかもジグザクなので、上がるときは1か2ギア。下りのときはまるでジェットコースターが下に降りるような感覚なので速度を出しすぎのないように低速ギアでエンジンブレーキをかけながら・・・。青ヶ島の道路はまるでジェットコースターの軌道を運転するような感覚なので内地と異なる運転テクニックが必要になります。しかも、道幅が狭いところが多いので、常に対向車が来ないか神経を使います。次は四郎ヶ原(しろうがはら)駅です。
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南大嶺駅
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